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<市民記者板>前史・民族

 
2403 「鎖国」なかった江戸時代
 
加賀八郎  (48) (大阪府 -  ) 2016/09/27 13:06
「事実」と違った教科書

(前文)
「江戸時代、日本は鎖国していた」。こう、学校の歴史の時間に教えられた人も多いだろう。しかし、最近では「鎖国はしていなかった」と考える歴史の見方が優勢となっている。

(本文)

「日本は江戸時代に鎖国令を出し、国内で安穏をむさぼり、その末期に西洋列国が開国を迫ると、幕府は驚き、結局倒され、開国に至った」――。現在、30代以上の人の大半は、こう学校で教わったはずだ。しかし、現在の教科書を見ると「鎖国」という言葉に代わり「海禁」という用語が使われている。「海禁」は、貿易と海外渡航を制限するもので、まったく海外との交流を断絶するものではない。なぜ「鎖国」ではなく「海禁」と改められたのか。それは「鎖国」が歴史的事実と辻褄が合わなくなってきたからだ。

 日本は「鎖国」していたとされる時期でもオランダ、中国と通商し、朝鮮とは通信をしていた。また東南アジアとも間接的な貿易と交流は行われていた。

 これらの通商、通信の窓口となったのが長崎、対馬、薩摩、松前。長崎にはオランダとの貿易拠点の商館が置かれ活発に貿易が行われていた。また、中国からは私貿易の船が来航し、幕府は唐人屋敷を長崎に設置していた。薩摩では、1609年、島津藩が琉球を征服して以降、琉球を中継地として、東南アジアと貿易を行っていた。松前では、松前藩がアイヌを通じてロシアと貿易をしていた。

●ミスリードされた事実

「鎖国」が崩れるきっかけとなったペリーによる「黒船」来航――。これが教科書で教えられた「開国の端緒」である。「黒船によって、幕府は驚き、薩長を中心に尊皇攘夷が沸き起こり、倒幕に至って、明治維新が成った」というのが江戸時代末期から明治時代にかけての〝歴史〟である。

 だが、徳川幕府は黒船が訪れるという情報をオランダ経由で把握していた。当時、オランダとは通商だけでなく、欧米の各国事情を月に一度「オランダ風説書」という情報レポートとして入手していたのだ。そこでオランダから米国の黒船が1年後には日本に訪れるという情報を受け取っており、単に来航の情報だけでなく、黒船の来航の目的もつかんでいたとされる。

 科学史家の山本義隆氏がこう述べる。「幕府は黒船には驚きませんでしたが、ペリーが持ってきた実際に動く蒸気機関車の模型と、有線通信のデモストレーションを見て『この技術は軍事に転用できる』と衝撃を受けたようです。その意味で幕府は有能でした。科学技術が軍事技術に転用できると理解したわけですから」

 山本氏は「ペリーのデモは単なる単純な儀礼として、軍事的優位を見せ付ける意図はなかった」と言う。事実、欧米が科学技術の中に軍事技術の可能性を見出したのは明治以降。つまり、徳川幕府の方が先見の明があったのだ。
 
 さらに当時の庶民たちは黒船に興味津々、ゆかいに楽しんでいた様子があったという。これからも「黒船来航で日本は危機」というのは〝作られた物語〟であったことが分かる。

 欧米でさせえ気づいていなかった科学技術の先にあるものを見抜いた徳川幕府に、黒船にあわてなかった庶民。ところが明治以降、江戸時代の評価は貶められた。「『鎖国』という殻に閉じこもり、世界から遅れていた時代、黒船に上から下まで日本人は慌てふためいた」という、事実とは反対の評価に上書きされた。

 なぜ事実がゆがめられたのか、考えてみる必要がある。

 
 

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